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「未完」という言葉には、どこか悲しげで、それでいて想像力をかき立てる力が秘められている。ベートーヴェンの交響曲第10番が完成していたら、それはどのような旋律だったのであろうか。ジェームズ・ディーンが24歳で衝撃的な死を迎えていなかったら、果たしてどんな役者になっていたのだろうか。手塚治虫の遺作『ネオ・ファウスト』には、どのようなエンディングが用意されていたのか――などなど。 もちろん、フットボールに置き換えてみてもいい。 1956年のハンガリー動乱がなかったら、フェレンツ・プスカシュ擁するマジック・マジャールは、どのような進化を遂げていたのであろうか。ユーゴスラビア分裂がなかったら、かの国の代表「プラービ」は、どんなに美しいフットボールを披露していただろうか。そして――イビチャ・オシムが突然の病に倒れなかったら、2010年の日本代表はどんなチームに成長して、南アフリカでのワールドカップを戦っていたのだろうか。 12月7日、イビチャ・オシムは「前日本代表監督」となった。 まことに残念極まりない話だが、本人の病状を考えるなら、この決定は致し方ないだろう。「オシム監督、脳梗塞で倒れる」の衝撃的な報が日本を(そして大げさでなく世界を)駆け巡ったのが、先月の16日。一時は生命の危機も案じられたが、幸い意識は回復して、その第一声は「試合は?」だったという。このニュースに、大いなる安堵とともに、何ともいえぬおかしみを覚えたのは、私だけではないはずだ。 後任監督に就任したのは、98年のワールドカップ・フランス大会で代表を率いた岡田武史。この人選は、来年2月から始まるワールドカップ・アジア3次予選を見据えた極めて現実的な判断であったことは間違いない。しかしながら、同時に「日本のサッカーを日本化する」というオシム政権下で続けられてきた壮大なプロジェクトの断念を、他ならぬ日本サッカー協会と技術委員会が宣言した、という事実も銘記されるべきである。 これは賭けてもいいが、今後、協会がオシムのプロジェクトを再開させることはないだろう。理想を打ち捨て、2010年に向けて現実路線で突っ走った日本代表は、おそらくアジア予選を勝ち抜くも、本大会でまたしても世界との距離を露呈。そして、そのころJリーグで実績を挙げていた外国人監督に次代の代表を託し、その監督がブラジル人なら南米スタイルに、ドイツ人なら欧州スタイルに、チームのスタイルは変質していく。何のことはない、過去5年間繰り返されてきたことが、今後5年もまた繰り返されるのである。昨年のオシムの監督就任は、こうした惰性的な連鎖を断ち切る絶好のチャンスだったわけだが、不幸にも自身の病魔によってプロジェクトは封印されることとなった。 何やらまたぞろ「岡ちゃんフィーバー」によって押し流されそうなので、この機会に書き留めておきたいことがある。それは技術委員会のリスクヘッジについてだ。 オシムが倒れた際、病院に搬送するまでの連絡体制が不十分であったことが、のちに明らかになっている。同居していた長男のアマルは、深夜だったため関係者に連絡が取れず、フランス在住の祖母井秀隆元ジェフ千葉GMに電話して、ようやく急変を外部に知らせることができたという。これは明らかに協会のサポート体制の不備によるものであり、少なからずのメディアは問題視しているわけだが、同様の批判は今回の後任選びに際して、技術委員会にも向けられるべきであろう。ところが、そうした議論がほとんど聞こえてこないのは、どうしたことであろうか。 日本代表監督就任時で65歳、2010年大会には69歳になっている、この老将を迎えるにあたり、協会が綿密かつ細心の健康のケアを施していたのは認める。だが、果たして今回のようなアクシデントを、彼らはどこまで予想していたのか――たぶん、していなかったからこそ、後任人事が混乱したのだと思う。 そりゃあ誰だって、オシムさんに倒れてほしくはないし、いつまでも元気で代表を指揮してほしいだろう。おそらく協会内部でも「オシムさんが途中で倒れたら……」なんて縁起でもない話は、口が裂けてもいえない雰囲気もあったのだろう。だが、もともと心臓に持病を抱えた65歳の老人が、日本代表監督という激務をこなすことの過酷さに加え、旧ユーゴ諸国の平均寿命が日本と比べて低いという現実(男性の場合、クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナは71.3 歳、日本は78.3) を鑑みるのであれば、「もしも」の時の後継者を序列をつけて選定し、コーチ陣に入閣させるべきであった。オシムを中心に据えた、日本サッカーの一大転換を図るプロジェクトを果断に推進するのであれば、それくらいのリスクヘッジはあってしかるべきだったと、今さらながらに強く思うのである。 今回の後継者候補に、反町康治、大熊清両コーチの名前を強く押す意見が上がらなかったところを見ると、技術委員会にそうした危機管理の発想が最初から欠如していたと判断せざるを得ない。と同時に、あれほど頻繁に監督とコーチ陣が長時間ミーティングを重ねてきたにもかかわらず、2010年における日本代表の完成予想図も、あるいはその設計図さえも、実はチームの中で共有できていなかったのではないか、という疑念さえ沸いてくる。もし2010年までの設計図なり青写真なりが、オシムの頭の中だけでなく、技術委員会の“機密資料”として保存・共有されていたのなら、プロジェクトを放棄することなく後任人選を進めることができたのではないか。少なくとも、これまでの2年間をムダにすることはなかっただろう。 ジェリェズニチャル・サラエボ、パルチザン・ベオグラード、ユーゴスラビア代表、パナシナイコス、シュトゥルム・グラーツ――。それぞれのクラブや代表で数々の結果と伝説を残し、そして幾つかのやり残したテーマを抱えながら、オシムは日本にやってきた。そして、ジェフ千葉で自身の理想とするサッカーの片鱗を披露してクラブに初タイトルをもたらすと、三顧の礼をもって日本代表監督に迎えられた。年齢的なことを考えるなら、そのキャリアの集大成を日本代表に託そうとしていたことは容易に想像できる。それは困難に満ちた作業ではあるが、きっと自信作になると確信していたことは、これまで発せられた言葉の数々からも明らかだ。しかし、もはや私たちはそれを見ることはない……。 かくして、オシムの日本代表は「大いなる未完」となってしまった。そして日本サッカー界は、10年に一度、あるかないかという変革のチャンスを、みすみす放棄してしまった。2007年という年は、日本サッカー界の「逆行へのターニングポイント」として、人々に記憶されることになるのではないか、残念ながら。 photo:069 就任会見でのオシム…東京 2006 宇都宮徹壱/Tetsuihi Utsunomiya 1966年、東京都出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、欧州を中心に「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。誰にも顧みられない鄙びたスタジアムと、当地で飲む酒をこよなく愛する。著書、『幻のサッカー王国』『サポーター新世紀』(いずれも勁草書房)『ディナモ・フットボール』(みすず書房) |
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