フットボールの犬 宇都宮徹壱

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help リーダーに追加 RSS 第59回 偉大な目撃者――プスカシュの死を悼んで

<<   作成日時 : 2006/12/04 10:06   >>

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 「走る少佐」ことフェレンツ・プスカシュが11月17日、肺炎のためブダペストで亡くなった。享年79歳。晩年はアルツハイマーも患っていたそうだ。偉大なフットボーラーの惜しまれる死に、しかし日本のメディアはベタ記事で伝えるのみであった。専門誌も同様である。残念な反面、仕方のない話だとも思う。

 プスカシュが活躍した1954年のワールドカップは、日本でいえば昭和29年。第5福竜丸がビキニ環礁で水爆実験の死の灰を浴び、『ゴジラ』の第1作が封切られた年である。おそらく、リアルタイムで全盛期のプスカシュを見た日本人はひとりもいなかっただろうし、プスカシュの偉大さを認識していたサッカー関係者やジャーナリストが、当時の日本にどれだけいたのかさえ疑わしい。要するに当時の日本サッカー界は、絶望的なまでに世界から遠く、マジック・マジャールもプスカシュも知るよしなどなかったのである。欧州各国とは異なり、日本の報道の扱いが小さくなってしまったのも、ある意味当然といえるかもしれない。

 マジック・マジャールの時代から半世紀が過ぎた現在、われわれはYouTubeにアクセスすることで、伝説の一端を垣間見ることができる。10番を付けていたプスカシュは、ノイズ混じりのモノクロームの映像の中で所狭しと躍動していた。小太りの体躯を揺らしながら疾走し、ドリブルもパスもシュートも全て左足一本で済ませてしまう、実に癖のあるプレースタイル。そいつを一振りすれば、局面はガラリと変わる。彼の左足は、モーゼの杖そのものである。

 まだ今ほどプレスもきつくなく、人もボールもゆっくり動いていた時代にあって、プスカシュだけが、現代サッカーでも十二分に活躍できそうなスキルとスピードを披露していた。さながら、未来から迷い込んだタイムトラベラーとでもいうべきか。当時としては、まさに別格のフットボーラーだったことが、古色蒼然とした映像からもひしひしと伝わってくる。

 プレーヤーとしての非凡さは数字にも表れている。ハンガリー代表として84試合に出場し、83ゴール(!)。亡命しなければ、記録はさらに伸びていたはずだ。レアル・マドリードでは、372試合に出場して324ゴールを挙げ、得点王に4回輝いている。獲得したタイトルを記録から拾い上げると、五輪優勝(52年)、ハンガリーリーグ優勝4回(50、52、54、55年)、スペインリーグ優勝5回(61、62、63、64、65年)、チャンピオンズカップ優勝3回(59、60、66年。ただし59年はベンチ)、インターコンチネンタルカップ優勝(60年)。あらためて、優勝を逃した54年のワールドカップが悔やまれる。

 さてプスカシュといえば、ソ連の軍事侵攻(56年)によって故国ハンガリーを追われ、スペインへの亡命を余儀なくされ、のちにスペイン代表として再びワールドカップに出場するなど、何とも波乱に富んだ生涯を送ったことで知られている。だがそれ以上に、私は思うのだ。この人は偉大なフットボーラーであると同時に「偉大な目撃者」ではなかったか、と。実のところプスカシュは、時に主役として、時に引き立て役として、20世紀におけるフットボールの歴史的瞬間に、たびたび居合わせているのである。

 53年、プスカシュ率いるマジャール軍団は、ウエンブリーでイングランドを6−3で撃破。イングランドは、聖地で初めて敗れるという屈辱を味わい、もはやフットボールの母国は世界一ではなくなっていたことを思い知らされる。

 54年、無敗記録を更新中だったワールドカップ・スイス大会の決勝で、本命ハンガリーは西ドイツに2−3で敗れてしまう。西ドイツは、これがワールドカップ初優勝。プスカシュにしてみれば、怪我で思うようなプレーができなかっただけに何とも悔やまれる結果であったが、この試合こそ、世界に冠たる「強いドイツ」が誕生した瞬間でもあった。

 60年、レアルの一員となったプスカシュは、チャンピオンズカップ決勝に出場。13万人の観客が詰め掛けたハンプデンパークで4ゴールを挙げる活躍を見せて、7−3でアイントラハト・フランクフルトを一蹴、レアルの欧州5連覇に貢献した。「エル・ブランコ」の伝説的なゲームに主役として立ち会えたことは、プスカシュにとって現役時代最高の思い出となった。

 それから月日は流れ、ユニフォームを脱いだプスカシュは指導者の道に進む。最初に彼を迎えたのは、ギリシャのパナシナイコス。当時は今以上に、ギリシャは代表でもクラブでもヨーロッパのアウトサイダーでしかなかった。ところがプスカシュは、このパナシナイコスを70−71シーズンのチャンピオンズカップ決勝まで導く。どうやら彼には、指導者としても卓越した才能があったらしい。だがパナシナイコスとプスカシュ監督は、あと一歩のところで欧州チャンピオンの称号を取り損ねてしまう。決勝の相手はアヤックス。そこには、当時売り出し中の若きヨハン・クライフがいた。クライフ伝説の始まり――またしてもプスカシュは、歴史的瞬間の目撃者となっていたのである。

 プスカシュの生涯は、フットボーラーとしての活躍が華やであればあるほど、亡命者ゆえの切なさや忍苦が強烈なコントラストとして浮かび上がる。彼は、激動の20世紀の目撃者でもあったのだ。プスカシュが再びハンガリーの地を踏んだのは、動乱から実に37年後の93年。長い亡命生活にようやく終止符を打つことができた「走る少佐」は、夢にまで見た祖国で静かな余生を送ったそうである。合掌。


photo:059  パナシナイコスの少年サポーター…アテネ 2003


宇都宮徹壱/Tetsuichi Utsunomiya
1966年、東京都出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、欧州を中心に「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。誰にも顧みられない鄙びたスタジアムと、当地で飲む酒をこよなく愛する。著書に『幻のサッカー王国』『サポーター新世紀』(いずれも勁草書房)『ディナモ・フットボール』(みすず書房)がある。

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